浮気は心の殺人
これは少し前の話なんだけど、失恋をした。
ふと視界に入ってしまった彼氏のLINEの画面には、私以外の女の子が2人ピン留めされてた。
最近やりとりしたんであろう上から10人は、私を含めてみんな女の子で、彼氏はみんなに「かわいいね」「癒してあげたい」「〇〇が好きだよ」「今すぐ会いたい」「またお出かけしようね」と、メッセージを送っていた。
バランスがいいね。ご飯もきちんと三角食べする人だもんね。同時に物事をこなしていくのが得意な人なんだね。ふざけるなよ。
バカらしくてやるせなくてうんざりしてしまったから、寝てた彼を叩き起こして、問いただして、出てってもらった。
よくある話で、よく聞く話なんだよな。
彼は私にとって特別だったし、私も彼にとって特別であってほしかったし、てっきりそうだと思っていたけど、全然そうではなくて。
”よくある話“な傷つけ方をされて、ごくごくありふれた終わり方をした。それが一番悲しかった。
彼にとって私はありふれた、替えのきく、都合のいい人材だったんだな。
また大切にされなかった。
誰にもバカにされたくないし、誰にも雑に扱われたくないんだけど、悲しいことに私は替えが利く存在として扱われることが多くて、あっさり傷つけられてしまう。
大切にされるような価値が自分にないんだろうか、どうやったら大切だと思ってもらえるだろうか、何をすればいい、私に足りないものってなんだろう。そういうことをずっと考えながら生活してると毎日どんどん心がすり減っていくのがわかる。
マジでバカらしいな。私にとって私の替えはないのに。
せめて自分だけは精一杯自分を大切にしようと思って、いろんな方法で自分をいたわった。
まず酒飲むのやめた。飲んだ次の日の朝パンッパンに浮腫んだ顔見るとめちゃくちゃ自分のこと嫌いになるし。
彼氏につられて吸ってたタバコもやめた。彼氏が喫煙所に行ってる時間が寂しかったから吸ってたんだけど、もうその必要もないし。
生まれて初めて半身浴とかした。全然体の調子は変わんなかったけど。
いつもと違う化粧をして、いつもの友達と、いつもと違う遊びをした。私は意外とボーリングがうまいことに気付いた。
そうやって、「あ、私ってべつにあの彼氏居なくても全然楽しく生きていけるな」って確認してから、初めてちょっと泣いて、そいつのLINEを消した。
浮気は心の殺人、って言葉聞いたことあるけど、マジで心1回死んじゃったので、自分は自分!1人でも生きていける!とかいう初歩のアイデンティティの形成からやり直さなきゃいけなくなった。
要は心が生まれ変わった訳だけど、それによって成長できた、いい思い出になったとは一切思えない。
今はただただ、「あいつ、来世ゲジゲジとかに生まれ変わっちゃえばいいのに」と思っている。
希死念慮vsブラジル人
最近、「あ、死にたいかも」と思ってしまう。
死を願ってしまうことを、精神医療の世界では「希死念慮」というらしい。
最近の自分はあまりにも人と関わる機会が少なく、あまりにも仕事で役に立たない為、
私は世の中にとってなんの役にも立たないのではないか?誰にとっても必要ないのではないか?
という陰鬱な自問自答をよくしてしまう。
世の中に必要とされたいのなら、何かしらの努力によって社会に貢献することが必要だ。それはわかってるけど、自分に足りない点が多すぎて、一体どんな努力からすればいいのかわからない。
「自分がどんな努力をすべきか」なんてことは自分で見つけるべきなのもわかっているのに、もう疲れた、誰か答えを教えてくれ、と思いつつ人に迷惑をかけ続けている自分のことが、ひどく恥ずかしい。
そして、そんな自分を恥ずかしいと思っている時に、私は「もうどうしたらいいかわかんないし、死ぬか〜!」と思うのである。
・けど元を正せば全然死にたくない
だが、私の「死んでしまいたい」という衝動は、強烈だがしばらくすれば終わる。
死んだらできない楽しいことが、たくさんあることを知っているので。
友達と些細なことで爆笑しあった時とか、創作物の感想をもらえた時とか、炊きたてのご飯がおいしい時とか、冷えたビールが喉を通る時とか、犬の散歩に遭遇した時とか、秋に金木犀の匂いを嗅いだ時とか、嬉しくて楽しくて幸せを感じる。
最近だと、クーラーがガンガン効いた部屋で友達と酒を飲みながら2.5次元ミュージカルのBDを鑑賞したのが最高に楽しかった。
そもそも私はオタク活動の喜びを知っているのでそう簡単に死ねない。推しの姿を見るたび「私に眼球があって良かった…人間として生きててよかった…」と思うし。
死にたいんじゃなくて、真っ当に生きたいだけなのだ。
誰にも迷惑を掛けず、無理をせず、地に足をつけて、楽しく生きていきたいが、今の自分では難しい。
要は、直面している問題が自分のキャパシティを超えているだけなのだ。
私は真っ当に生きています!人生楽しいです!
と、胸を張って言えるように自分のキャパシティを広げるまで、強烈な死にたさに耐えなければならない。なにより自分のために。
・「死にたくないのに死にたい」という衝動をどうにかするには
とはいっても、襲ってくるのが希死念慮である。
すぐに自分の問題解決能力がバリバリ育つわけないし。しばらくはうだつの上がらないダメピーポーとして生きてくわけだ。
その間、うっかり死なないようにするにはどうしたらいいだろうか。
少しでも自分の気分を上向かせるために、なにか楽しいことを考えなければならない。
なにかすごく楽しげで、エネルギッシュで、インパクトがあって、すぐ思い出せて、想いを馳せるだけで死にたい気持ちが即座に吹っ飛ぶような、「悩み」と対極にある、楽しさの象徴のようなもの…
そうか、サンバだ!カーニバルだ!
そう思って、私は頭の中に大量のブラジル人を住まわせ始めた。
それから、死にたくなった時には即座に脳内でリオのカーニバルを開催している。
ドンドン!ドンドン!ドドドドドドドン!
ピッピーププッピッピピー!
「#*&$!!」(ポルトガル語)
「*#@^&#@*!!!」(私には理解できないポルトガル語)
舞い散る色とりどりの紙吹雪の中を、セクシーなサンバコスチュームを纏ったブラジル人のお兄さんお姉さんたちが、煌びやかな羽飾りを揺らし、踊りながら練り歩いていく。陽気なサンバミュージックに合わせてサンバダンサーが振る尻はボリューミーでカッコいい。生命力の煌めきを感じる。
賑やかなサンバの一団が私の脳内を通り過ぎるころ、希死念慮はどこかに消えている。
イカれてると思われただろうか。
だが、死にたいという常軌を逸した衝動には、常軌を逸した強烈さでないと太刀打ちできない。
目には目を、バケモンにはバケモンを、人には人の乳酸菌。
希死念慮にはブラジル人。
今日も私は頭の中で、自分の生み出した希死念慮とブラジル人を戦わせている。
人間性を保ちたいので、ブログを始めた。
今年、私は社会人になった。一人暮らしをはじめて5回目の夏を迎えている。
社会人はキツい。
メチャクチャ手垢のついた言葉である。
私が学生時代に縁のあった人生の先輩達は、なぜか皆半笑いで
「いや〜社会人はキツいよ(笑)今のうちに遊んどきなよ(笑)」
と言うのだった。
バイト・授業・課題・家事・オタ活に常に忙しくしていた学生だった私は、社会人になることでこれ以上人生がキツくなるのなら、家にある同人誌を全部食って窒息死してやろうと思っていた。
学生時代なんて人生で一番楽しいんだから、と半笑いでアドバイスをされると、自分が今必死に生きていることを軽んじられているような気がして、怒りさえ覚えたものだ。
ただ、実際社会に出てみると、キツいのだ。社会人、キツい(笑)のだ。
自分が想像していたのとは全く別のキツさに見舞われている。仕事関連のストレスとかとりあえず置いておいて一番キツいのが、適度な雑談をする人間が身近にいないということ。
孤独なのである。
自分が感じたことをライトに話せる人間が身の回りにいない。
これがめっちゃキツい。
大学時代は、学校に行けば誰かしら仲のいい友達が居て、目的もなく一日中食堂でダベったりできた。
小中高大ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染と晩御飯を作りあい、絵の作家論の話なんかもした。バイト先のアニメコラボカフェでは、オタクの同僚達と自ジャンルの布教のし合いをした。落ち込んだ時には、近所の大学生だった彼氏が車を出してドライブに連れていってくれて、将来の話なんかもした。
今の日常生活で、こういった人間関係を持つのは難しい。
自分が思っていたより数倍も、学生生活は楽しかったし、恵まれていた。
今なら諸先輩方がなぜ半笑いで社会人のキツさを伝えてきたかわかる。
学生時代にしか作れない種類の思い出は数多く存在する。楽しかった学生時代に想いを馳せ、時の流れの速さに愕然とし、当時とは全く違う環境で忙殺されている自分を客観視すると、人間、半笑いにならざるを得ない。
私もとうとう立派な「社会人キツいよ(笑)」サイドの人間になってしまった。
もうね、毎日親しい人と顔を合わせて会話したい。毎日友達と明るいうちから酒飲んで腹筋攣るぐらい笑いたい。自分以外の人間が紡ぐ言葉に、その人の人間性を感じて温かみを感じるなどしたい。
人と関わらなくなると、「人に伝えるための言葉」が全く喋れなくなることを実感している。
言語野の先っちょだけを使って、Twitter上で奇声を上げるキモ・オタクと化してしまっている私が言うんだから間違いない。
推しの新しい素晴らしくカッコいいジャケ写を見て、「アア〜〜〜〜」としか言えない自分が恥ずかしい。もっと人間らしく喋りたい。せめて人間でいたい…
私には今、「日本語を操りたい欲求」がある。
私が感じたものごとが、毎日私の中でうまく消化しきれず、死んでいくことに耐えられなくなった。
1日生活すると、「人に喋りたかったけど喋れなかった考えと言葉」で頭と喉がいっぱいで、息が詰まりそうになる。
仕事で上司と話すときほど気を遣わず、Twitterで呟くほどひとり言的でない言葉をどこかに残したい。
このブログはそういった「人に喋りたかったけど喋れなかった言葉」の墓場にしようと思う。
私の喉の奥で死んでった言葉を、積極的に目に見える形で弔いたい。
たまに、ここに墓参りに来てほしいです。おもしろい墓場にしていきたいと思いますので。