感性のカタコンベ

毎日たくさんの感性を押し殺している

希死念慮vsブラジル人

 

最近、「あ、死にたいかも」と思ってしまう。

 

 

死を願ってしまうことを、精神医療の世界では「希死念慮」というらしい。

 

 

最近の自分はあまりにも人と関わる機会が少なく、あまりにも仕事で役に立たない為、

私は世の中にとってなんの役にも立たないのではないか?誰にとっても必要ないのではないか?

 

という陰鬱な自問自答をよくしてしまう。

 

 

世の中に必要とされたいのなら、何かしらの努力によって社会に貢献することが必要だ。それはわかってるけど、自分に足りない点が多すぎて、一体どんな努力からすればいいのかわからない。

「自分がどんな努力をすべきか」なんてことは自分で見つけるべきなのもわかっているのに、もう疲れた、誰か答えを教えてくれ、と思いつつ人に迷惑をかけ続けている自分のことが、ひどく恥ずかしい。

 

そして、そんな自分を恥ずかしいと思っている時に、私は「もうどうしたらいいかわかんないし、死ぬか〜!」と思うのである。

 

 

・けど元を正せば全然死にたくない

 

だが、私の「死んでしまいたい」という衝動は、強烈だがしばらくすれば終わる。

 

死んだらできない楽しいことが、たくさんあることを知っているので。

 

友達と些細なことで爆笑しあった時とか、創作物の感想をもらえた時とか、炊きたてのご飯がおいしい時とか、冷えたビールが喉を通る時とか、犬の散歩に遭遇した時とか、秋に金木犀の匂いを嗅いだ時とか、嬉しくて楽しくて幸せを感じる。

最近だと、クーラーがガンガン効いた部屋で友達と酒を飲みながら2.5次元ミュージカルのBDを鑑賞したのが最高に楽しかった。

 

そもそも私はオタク活動の喜びを知っているのでそう簡単に死ねない。推しの姿を見るたび「私に眼球があって良かった…人間として生きててよかった…」と思うし。

 

死にたいんじゃなくて、真っ当に生きたいだけなのだ。

 

 

誰にも迷惑を掛けず、無理をせず、地に足をつけて、楽しく生きていきたいが、今の自分では難しい。

要は、直面している問題が自分のキャパシティを超えているだけなのだ。

 

私は真っ当に生きています!人生楽しいです!

と、胸を張って言えるように自分のキャパシティを広げるまで、強烈な死にたさに耐えなければならない。なにより自分のために。

 

 

・「死にたくないのに死にたい」という衝動をどうにかするには

 

とはいっても、襲ってくるのが希死念慮である。

すぐに自分の問題解決能力がバリバリ育つわけないし。しばらくはうだつの上がらないダメピーポーとして生きてくわけだ。

 

その間、うっかり死なないようにするにはどうしたらいいだろうか。

少しでも自分の気分を上向かせるために、なにか楽しいことを考えなければならない。

 

 

なにかすごく楽しげで、エネルギッシュで、インパクトがあって、すぐ思い出せて、想いを馳せるだけで死にたい気持ちが即座に吹っ飛ぶような、「悩み」と対極にある、楽しさの象徴のようなもの…

 

 

そうか、サンバだ!カーニバルだ!

そう思って、私は頭の中に大量のブラジル人を住まわせ始めた。

 

 

それから、死にたくなった時には即座に脳内でリオのカーニバルを開催している。

 

ドンドン!ドンドン!ドドドドドドドン!

ピッピーププッピッピピー!

「#*&$!!」(ポルトガル語

「*#@^&#@*!!!」(私には理解できないポルトガル語

舞い散る色とりどりの紙吹雪の中を、セクシーなサンバコスチュームを纏ったブラジル人のお兄さんお姉さんたちが、煌びやかな羽飾りを揺らし、踊りながら練り歩いていく。陽気なサンバミュージックに合わせてサンバダンサーが振る尻はボリューミーでカッコいい。生命力の煌めきを感じる。

 

賑やかなサンバの一団が私の脳内を通り過ぎるころ、希死念慮はどこかに消えている。

 

 

イカれてると思われただろうか。

 

だが、死にたいという常軌を逸した衝動には、常軌を逸した強烈さでないと太刀打ちできない。

目には目を、バケモンにはバケモンを、人には人の乳酸菌。

希死念慮にはブラジル人。

 

 

今日も私は頭の中で、自分の生み出した希死念慮とブラジル人を戦わせている。